第2集:守口から枚方へ

文禄堤から見る京阪枚方駅02/07/28
文禄堤から見る京阪守口駅
守口市に入った京街道は市バス守口車庫前を通り、その先の歩道橋手前を右へと折れる。左手に土居小学校、右手の日吉公園に挟まれた道を進み、公園の角を左折するとその先の四つ角に守口宿・文禄堤→の道標が見える。
文禄堤を行く02/07/28
文禄堤を行く

野崎道への道標02/07/28
野崎道への道標

右手を見れば、なるほどその先の道が坂を上がって行く。道路地図を見るだけでは知ることの出来ない京街道の名残がここにある。自動車が1台通れるかどうかという細い道筋は左右から一段高くなり、古の文禄堤の風情を今に伝えている。

守口市の中心部に残る京街道の面影の中を抜け国道1号との交差点へと出る。
かつての文禄堤はこの先を真っ直ぐ進み、一方の京街道は堤を右手に降りて京へと向かったという。今は先に堤はなく、道はなだらかに国道へと下ってゆく。

どこにでもあるような交差点、そこがいかにも堤を降りるという様子を感じさせるのは思い入れが強すぎるからなのだろうか。
交差点の角に掲げられた東海道五十七次の大きな図、それが 街の歴史を人々に伝えている。

文禄堤を降りた京街道は難宗寺の四つ辻にある道標を頼りに左へと入って行く。
そ手前の旧家が大塩平八郎ゆかりの旧白井家隠居所。大坂東町奉行所与力であった大塩が窮民救済をとなえて幕府に対して兵を上げたのは1837年(天保8年)2月の事である。彼はここでの講義のために大坂市中からの京街道を通ってきていたという。そして挙兵前にはこの地でも何事かが話し合われたのだろうか。
旧白井家隠居所と道標02/07/28
旧白井家隠居所と道標

一里塚跡02/07/28
一里塚跡

浜町の交差点で国道1号を渡るとすぐ左手に一里塚址がある。今は住宅の間の僅かな空間にはそれ 案内板だけが建てられている。

一里塚址を先へ進み京阪北本通を横切る。突き当たりの丁字路を右に入ると再び京阪北本通へと戻り正面に守口東高校を見る。ここからは京阪北本通を北へ進み日本通運の営業所前で左に入ってゆく路地へと進む。この区間の地図を見ると京阪北本通と守口東高校の敷地が京街道の道筋を切り取っているかのように見える。

さて、京阪北本通と分かれると京街道の正面には阪神高速が見えてくる。その高架橋を抜けた先にある高層マンションに挟まれた風景は、旧街道というよりも新興住宅地のそれとなる。突き当たりに正迎寺、由緒ある寺の存在が京街道の証明か。寺の前を右へと曲がり突き当たりの公園を今度は左へ、路なりに進んで左手の水道局の施設に沿って淀川方向に進み、堤防の上へと登って行く。

旧街道は河川敷公園の下に02/07/28
旧街道は河川敷公園の下に
この先はしばらくの間、淀川の堤防上を進む。もちろん現代の治水工事の成果として新たに作られた堤道である。左手の河川敷には公園が整備され、野球、サッカー、ラグビー、テニス等々人々が集い休日を楽しむ風景が続く。旧街道の道筋はそのどのあたりだったのだろうか。そのすべてが今では失われてしまった。しかし治水のため、そしてこの楽しげな様子と引き替えということであれば、それもまた吉と言うべきなのだろう。

堤道は淀川べりを北へと進む。右手には国道1号の寝屋川バイパスが走り、車が煩雑に行き来している。鳥飼大橋では近畿自動車道と共に大阪モノレールが淀川を渡る。モノレールはその昔、未来の乗り物として子供向けの絵本などにしばしば登場していたことを記憶している人も少なくないだろう。その未来の風景が今ここにある。21世紀は遙かに先のことであった。そして昭和30、40年代も今では「古き良き時代」となったのだろうか。そのころ、未来は輝かしいものであるはずだったのだが。

淀川02/07/28
淀川
佐太天神宮02/07/28
佐太天神宮
鳥飼大橋と前に見える鳥飼仁和寺大橋との中間あたり、国道の向こうに佐太天神宮の鳥居が見える。ここ佐太は守口宿と枚方宿の「間の宿」であり、また「佐太の渡し場」のあった場所でもある。佐太天神宮の北側から行政区域は寝屋川市仁和寺本町となり、その昔は京の御室仁和寺の寺領であったという歴史を今もその地名が伝えている。
右手に淡水魚試験場が見えてくると寝屋川市もそろそろ終わり。その北側は枚方市となり、淀川の堤防歩きもあとわずかとなる。